崩壊・逸脱から安定・平和へのプログラム
会社の上司に、口を開けば愚痴を言ったり、怒ったり、人を不愉快にさせることしか言えない方が時々おります。こうした上司を持つ社員の士気は、大抵が低いようです。同時にストレスがたまり、やる気をなくしていきます。いつも社員の仕事に不満を持ち、自分の感情をコントロールできないし、社員の活躍をありのままに評価できないさびしい方のように思えます。その実、社内の空気を乱す(?)“張本人”とは言えないでしょうか。社員を教育しているつもりでしょうが、結果的には「部署崩壊」を招いているような気がします。
子育ての中で、子どもが大人(親)からの禁止を命じる言葉に慣れてきますと、子どもは自分の発意で動くことができなくなっていきます。いつも親からの指示待ちです。親(大人)からの指示がないときは、彼らの強いエネルギーを発散するために、無秩序な運動をし、無意味にただ走り回ることになります。
他方、大人が何もかも子どもに代わってやってしまうと、これまた悲惨です。可愛がるあまりか、子どもにさせていたら親がじれったいからか、手があいているからか、「自分でする」という子どもの主張を無視してさっさとやってしまうと、その結果、欲求不満の子どもになっていきます。
また、親(大人)が、子どもがやっていることをせきたてることがあります。子どもは何かをしているときは頭を使っているのです。大人の“要らぬ”おせっかいのおかげで、肉体の動きと精神的エネルギーのバランスが壊れ、やる気(意欲)をなくしていきます。子どものバイオリズムを認知してあげることが大事です。
これらの現象を、モンテッソーリは「逸脱発育」と呼んでいます。大人はみな、良かれと思って子どもに関わります。それは本当であると信じます。自分が育った経験からすると、「こうしたほうがいい」という確信があるからです。しかし、親が育った環境、時代と「今」とはあまりにも違いすぎます。さらに、子どものバイオリズムに、親は戻れないのです。仮に、戻ることがあったとしても、「あの人、鈍いのじゃない?」「何を考えているのかわからない」とか、言われるのが関の山です。
この「逸脱発育」はどうして起こるのか?わたしが以前から感じていることがあります。子どもの遊びはすべて生活ですが、子どもの生活はすべて遊びではありません。「遊び」という一言に何もかもひっくるめて幼児教育を語る、現在の日本の幼児教育界の指針に問題はないでしょうか。加えて、幼児期に何もかもを「遊び的にする」という考え方や方法にも問題があるような気がします。
モンテッソーリは単なる「遊び」と「自分をつくる仕事」を区別します。遊びは何よりも自由な行動であり、自発的に始めます。これはいいのですが、好きなときに「もうやーめた」といってその場から立ち去ることも許されます。これが「遊び」です。これだけでは真の成長はできません。シリーズ2『子どもの「甘え」』で申し上げましたように、子どもが内面からよい方向へ変わるのは「活動サイクル」を体験したときです。「学級崩壊」「家庭崩壊」もない場を構築するために、粗野な、不満だらけの、荒々しい自分でないこと、温和な、安定した、平和な自分を目指したいものです。いつも申し上げることですが、「教育の本質は子ども自身の中に、そのプログラム(カリキュラム)があること」を確信することでしょう。
おわり